【心に響く映画/感想】映画『ビリギャル』やめることは逃げることじゃねえ。ただの選択肢のひとつだ

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ミクジン
ミクジン

寝ぐせの王様、ミクジンです

この記事は、オレの心に響いたものを勝手に紹介して書きまくるワガママシリーズです。

映画『ビリギャル』

この映画は、

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

というノンフィクション作品を映画化したものになります。

ひねくれ者のオレは、見る前はこんなことを思っていました。

「イケイケのアゲアゲなJKが、チャラっと勉強したら慶應大学に合格したってだけのパリピ映画だろ?見るかそんなもん!」

が、しかし。

実際に見てみたらこうなりました。

ミクジン
ミクジン

なんなのオレ…

恥ずかしいのを覚悟で言うけど、声出して泣いちゃいましたからね。

めちゃくちゃ良い映画でした。

そんなわけで、今回は映画『ビリギャル』を見て思ったことを書きなぐりたいと思います。

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映画『ビリギャル』

2015年5月1日公開。

本編約117分。

主なキャスト
  • 工藤さやか:有村架純
  • 坪田義孝:伊藤淳史
  • 森玲司:野村周平
  • 工藤あかり:吉田羊

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自分の可能性を信じること

この映画は最初に言った通り、

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

という内容になっています。

でも実際に見てみると、

他人がなんて言おうが笑おうが、自分の可能性を信じてやってみることの大切さ

を教えてくれる良い映画だなと思いました。

映画のレビューを見ていたら、

「慶應でもあの科ならバカでもワンチャンいける」

「慶應を受験するならこの程度の努力はみんなしてる」

というものを見かけたけど、そんなものはぶっちゃけどうでもいい話です。

だってこの映画は、

自分や周りの人が無理かもしれないと思っても、それでもやりたいから、がんばってやれるところまでやってみる

ということを描いていると思うからです。

みんながどうとか、あの科ならどうとか、もっと言えば合格とか不合格ですらも超絶どうでもいい。

そこじゃねえ。

自分でやろうと決めて、努力して、でも無理かもしれないと諦めかけて、それでもやれるところまでやりきったところに意味がある。

大事なのは、

他人がなんて言おうが笑おうが、自分の可能性を信じてやってみること

なんだと思います。

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『やめる』ことは『逃げる』ことじゃねえ

「自分の可能性を信じて」とか言ったけど、正直オレは自分に可能性があるなんてことはずっと思っていませんでした。

主人公のさやかはまだまだ若いし、どう考えても可能性に満ち溢れているように見えてうらやましく思った。

でも映画を見ているうちに、

「おっさんの自分だってまだまだじゃん」

と思えてきたんですよね。

さやかは勉強の途中、

「こんな夢先が見えない。身の程知らず」

と諦めかけたことがありました。

やってもやっても結果が出ない。

それが重くのしかかって苦しみに変わることをオレも知っているし、たぶん歳を重ねれば大抵の人は経験していることだと思います。

そんな時に母親がこう言いました。

「辛いならやめてもいいのよ。もうじゅうぶんがんばったもん」

これを聞いてね、オレ、さやかじゃねえのにめちゃくちゃ泣いちゃいました。

よく考えたら、重くのしかかるのも、苦しいのも、それだけ自分が本気になってがんばっていた証拠です。

それをちゃんと見ていてくれた母親の言葉が、この時どれだけの救いになったのか分かりません。

そして同時に母親は『やめる』という違う道もあることを示してくれました。

これは人によっては『逃げる』って解釈になると思うし、「負けたやつ」とか「だめなやつ」とか思う人もいるとは思いますが…。

オレはまったくそうは思いません。

だって『続ける』のも『やめる』のも、ただの選択肢にすぎないからです。

そりゃがんばって続けてた方が見てくれもいいし、やってる感はあります。

でもそれは目的があるからやっているだけで、『がんばって続けること』自体が目的なわけではない

それを忘れて、何か勘違いしている人が世の中に結構いるような気がします。

何か勘違いしている人を書いた記事

飯を食うために働いてるはずなのに、目的が「がんばってる感を出すため」になってる人とかね…。

目的のためにがんばるのはもちろん大切だけど、「がんばってる感」なんかハッキリ言ってどうでもいいんです。

それが生きがいってことなら、全然それでもいいとは思うけど….。

だけど自分と同じことができない人を、「負けたやつ」とか「だめなやつ」と責めるのは意味不明でしかない。

だって目的がそもそも違うから。

「がんばりすぎて8回入院した話」なんて、自慢げに話すことじゃねえんだよ。

早く9回目行っとけ

だから本来なら、どうしてもだめなら見切りをつけて『やめる』のも立派な選択肢

何度でも言います。

『やめる』ことは『逃げる』ことじゃねえ。ただの選択肢だ。

『逃げる』なんてのは選択肢に悪い名前を付けただけで、そんな付け方をしたらなんだってネガティブな意味になります。

がんばったら『無謀』、やめたら『逃げる』とか言い出したらもうなんにもできなくなる。

本当はそれが1番ダメなはずです。

だから母親が示してくれた『やめる』というもうひとつの道は、選択肢を増やして可能性を広げてくれる、本当に救いの言葉だと思います。

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可能性はたくさん転がっている

がんばって続けるのもやめるのも、ただの選択肢にすぎません。

なんならさっき悪い言葉であげた『逃げる』だって、本当はただの選択肢のひとつです。

そしてそれらの選択肢の先には、いろんな『可能性』が転がってます。

未来なんて分かりません。

誰にも分かるわけがねえ。

だからこそ自分の考え方ひとつで何もなくなったり、希望に満ち溢れたりする。

だったら今できることに一生懸命になって、自分で選択した道に胸を張っていいんじゃないかと思います。

たとえ失敗したとしても、まだ先にたくさんの可能性が転がってるんだから。

預言者気取りで分かったようなことをベラベラとしゃべるどっかのどうでもいい他人に振り回されず、自信を持って選んでいいんです。

他人がなんと言おうと、自分で終わらせない限り、可能性はなくなりません。

どうでもいいやつ、去れ。

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最後に

ミクジン
ミクジン

………。

ここまでバーッと書いて読み返してからこれを書いてますが、映画の感想じゃなくて自分の感じたことしか書いてねえなこれ。

でもね、それがオレのスタイルだからこれでいいやと思ってます。

これからも迷ったり悩んだりするだろうけど、それでもいいんだ。

同じくらいワクワクするし、楽しいこともあるだろうから。

だから自分がやりたいと思ったことを一生懸命にやって、なんか言われても逆に鼻で笑ってやろうと思います。

可能性を、終わらせんなよ!

ミクジン
ミクジン

おっさんをなめんじゃねえ

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